岩 崎 元 郎 の



新日本百名山48山 再録


1.  礼文岳 2.  藻岩山 3.  天上山 4.  沼津アルプス
5.  雨飾山 6.  永田岳 7.  志賀山 8.  恵山
9.  奥穂高岳 10.  大菩薩嶺 11.  筑波山 12.  櫛形山



「新百48山再録」−5   
雨飾山の思い出 2009.4.30 記

 ぼくの本棚には、『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』の各誌がずらりと並んでいる。『岩と雪』もある。思い出深い号も何冊かある。『岩と雪』32号(1973年夏)は、「日本の岩場・記録と課題」が特集だった。ぼくは、冒頭に「高さと困難が登山の目的なのか」、という登山に対する考え方を書かせて貰った。現在に至るまで、その考えは変わっていない。

 雨飾山の思い出を書くつもりが、はなっから話が飛んでしまった。話を戻そう。背表紙にマジックで、「雨飾山」と書かれた『山と渓谷』誌(1972年7月号)がある。雨飾山フトンビシ岩峰群ルート開拓の記録が、モノクロのグラビアページに紹介されている。

 その頃、ぼくは昭和山岳会を卒業し、蒼山会同人という山岳会を創って活動していた。同時に「山岳展望の会」の編集同人として、同人誌の発行に情熱を傾けていた。

 斎藤一男さん、故安川茂雄さん、故上田哲農さんといった、登山界の重鎮が始められた同人誌に、ある時期、若手が誘い込まれたのである。若手の代表は、故佐内順さん……。話がまたはずれた。


 山岳展望の会に集まった若手数人で、1972年のゴールデンウィークに、雨飾山フトンビシ岩峰群ルート開拓合宿を持ったのである。チーフリーダーは、沢登りで鳴らした小泉共司さん、サブリーダーはぼく。メンバーには『生と死の分岐点』を訳した黒沢孝夫君、前述『岩と雪』32号に「積雪期一ノ倉沢滝沢ルンゼ状スラブ」を、故長谷川恒男氏と登った記録を発表している遠藤甲太君、いち早くプロガイドとして活動を始めた桑原清君、ぼくと一緒に蒼山会同人を創立した矢口陽一君、彼の後輩、渕博美君という顔ぶれだった。

 これが、ぼくの雨飾山デビューだったのである。以降、実に良く雨飾山に通った。フトンビシ岩峰群が南面なら、西面には前沢奥壁とう岩場がある。この壁にルートを拓いた。北面に神難所沢という沢がある。この沢を遡って雨飾山の頂にも立った。日本百壱名山登山教室を始めてから、一般登山コースも登るようになった。

 懐かしい思い出はたくさんある。なんて書いて来たら、山岳展望の会メンバーとの合宿以前に、この山域に足を踏み入れたことを思い出した。


 昭和山岳会の現役だった頃、ぼくが昭和を卒業した後、チーフリーダーとなり昭和山岳会に一時代を画した酒井国光兄と2人で、海谷山塊の偵察に来たことがあった。上野から乗った急行丸池?は、直江津から糸魚川の間だったと記憶するが、蒸気機関車だった。ぼくの最後の蒸気機関車乗車記録だと思う。

 糸魚川から大糸線で根知まで行き、山口まではバスだったのか歩いたのか記憶にない。今、雨飾山の登山口に雨飾温泉がある。昔は、梶山新湯と呼ばれていた。さらに昔は、海谷駒ヶ岳に上がる沢の途中に源泉があり、新湯が出来たので元湯と呼ばれ、その沢は元湯ノ沢と呼ばれていた。いまでこそ車道は、雨飾温泉まで伸びているが、当時はずっと手前までで、山口を過ぎ車道のどん詰まりの集落は梶山だった。


 酒井兄とぼくは、元湯ノ沢に偵察に入ったのである。壁は大きかったが、手掛かりのなさそうな粘土質の壁で、あっさり断念した。

 昭和35年秋、河口湖畔で体験したキャンプをきっかけにスタートしたぼくの登山人生、はや49年を数えるが、やり残しもたくさんある。

 そのひとつが、海谷駒ヶ岳から雨飾山までの縦走である。近いうちに、歩きたいと夢見ている。思い出ばかりでなく、まだ夢を見させてくれる雨飾山に、乾杯!